ちょっと自分が見つかったんじゃないのかと感じた - 「ウェブ時代をゆく」

まだ全部読み終わってないんだけど、ここに中てられて、書きたくなったから読んだとこからちょっとだけ書く。
かなり長いけど引用。
P.84〜85

そして私はある女性のミクシィでの感想を読み、「総表現社会の三層構造」について確信を深めた。彼女は、自分こそ「総表現社会参加者層」に参入したい代表的な人間と強く自覚した、と日記に書いていた。
リアル社会の職業だけからは「大衆」層に分類されてしまうかもしれないし「エリート」になりたいわけではないが、自分の存在感を知らしめたいという欲望がある。読書をしたり、文章を書いたり、文化的に活動している側面があり、その活動や知識を誰かと共有したいが、そういう場所が今まで日本には少なかった。読書にまつわるキーワードでつながったミクシィ上の知己には、読んでいる本の量・質も豊富で文章を書く能力も素晴らしい人が多い。昔の「サロン」のような会話ができるコミュニティをネット上に彼女は持ち、充実した生活を送っている。大学の専門では「エリート」集団に属することはできなかったが、「大衆」の中に埋没するのも違和感がある。受験勉強と部活だけに追われていた進学校で表面上のつきあいをしてきた高校時代の友人たちと、いまさら苦しみや悩みをわかちあったりはできない。「エリート」でもなく、「大衆」に埋没してもいない中間層の人たちにとっての新しい可能性の出現、それがネットの本当のありがたみだ、と彼女は結んでいた。この感想は、私の問題意識とぴったり合致するものだった。

この一節、すごく腑に落ちた。自分にぴったり当てはまる、とまではいかないにしても、近いものを感じて、「そうか、僕が求めていたのはこういうことだったのか」という気がした。
僕自身、ネットというものには小学校の時から触れて、とにかくよく使うようになったのはADSLが実家に開通した中学3年生の時以来だ。中学のそれから数えても、もう6年間は「どっぷり」(は言い過ぎかな)とネット世界に触れてきて、何度かブログをやろうとして挫折してを繰り返し、今やっと恒常的に書けるようになってきている。興味関心の幅を広げても、実際にそれを話せる相手はなかなかいないし、特にネットやコンピューターに関する話題はかなり追ってきたけど、「こちら側」にはそうした深い話題を喋れる人はもっといない。
そうした状況で、ネットやブログがあれば、どれだけの反応があるか・実際に自分とリンクするのか、は別にしても、とにかく自分はこれに興味があって好きかもしれなくて、ということを表明することはできる。Webという広大な場にそれが一度でも載っかれば、誰かに読まれる可能性が出てくる。現状だって僅かながらの人たちでも、このブログを実際に読んでくれている。
そうやって自分の存在を確立していく場があるというのはものすごい大きなことだと思う。現実世界で色んなことを言ったとしても、どうしたって人は忘れていくし、自分が思ったこと、行動したこと、いけしょーという人間が確かにいたことというのが「残る」っていうことに意味がある。
このブログの名前(いけしょー)は現実に僕が呼ばれているあだ名で、プロフィールのページには実名も入れた。これは今の時期、就職活動とも関係することだと思うけど、「池田翔」という1人の人間として生きていきたいし、少しでも生きた証というか足跡を残したい自分がいるんだな、これが。
こんな個人的なことを書くのは非常に恥ずかしいという気はあるし、自分の弱さを曝け出すことでもあるとは思うんだけど、これだって自分を形作るためのワンステップなんだと思えば、そんなことはいい。梅田さんだって「ウェブ時代をゆく」で梅田望夫という人間を表現している。
これもひとつの行動。アウトプット。思っても表現しなきゃ、行動しなきゃほとんど意味はない。つたなくとも、僕の表現したいことはちょっとでも表現できたからよし!
迷惑をかけることではないから、こんな時は人目を気にせず、人に引っ張られずに行動するんだ。