「怒る」ことと、パーソナルとパブリック

「怒り」に関するこの一連のエントリを読んで思ったのが、「どこで怒るか」が問題なのではないかと言うこと。
「どこで」というのは、街中や公衆の面前、マスコミなどを通じての「パブリック空間」と、1対1でのやり取りだったり、家族、コミュニティ内などの「プライベート空間」です。

私は、効果的にコミュニケーションする人というのは、喜怒哀楽のうち喜楽だけしか取り扱えない人ではないと思うし、喜楽しか表出できない人は、むしろ人間として不器用な人だと思う。怒りや哀しみを持っていればこその人間だし、怒りや哀しみの気持ちを何とか相手に伝えたい状況というのもあるだろう。そして喜楽だけではなく、怒りや哀しみもまた、対象に影響を与えるシグナルとしての威力はかなり高い。目の前にいる人に、「もらい泣き」「こいつを怒らせると面倒だ」といった印象を与えるには、原稿用紙一枚の言葉を書き連ねるよりも、怒りや哀しみを表出することのほうが普通は効果的で、手っ取り早い*2。極単純な威嚇や同情だけでなく、より複雑なニュアンスのなかにも、怒りや哀しみの感情シグナルを混ぜ込むことで最適に伝えられる場合というのがある。

id:p_shirokumaは「感情はコミュニケーションのショートカットキー」と言っていて、それは確かだなと思う。自分の感情を五感を使って発信して、相手も五感を使ってそれを受け止める。それってもの凄く情報量の多いコミュニケーション活動だと思うわけです。電話やメール、ネットを使っても、なかなかそこにはたどり着けない。
でもそんな「怒り」の感情を有効に使えるのは「プライベート空間」だけなんじゃないかと思うのです。
何に対して怒っているのか、なぜ怒っているのか、怒った結果どうしたいのかということを、怒りの対象となる人や物事に正確に伝えられる。求める結果のためにフォローの行動を起こせる。
「怒り」の感情を有効に使って効果的なコミュニケーションができる人というのは、自分の手の届く、自分のコントロールの範囲内に(なるべく)限って「怒り」の感情を用いているのではないかなと思います。怒りにメリットを感じる人っていうのは、自分自身がそうやって怒りを使ったコミュニケーションをしている人か、そんな人が身近にいる人なのかな、とも。

感情を溜め込むと歪むかどうか。僕は上記のような方法でその歪みをコントロールしているのかもしれないが,少し思うのは,怒りを表出し続けている人が,すっきりしているように見えないということ。むしろ,悪循環に陥っていることのほうが多い。怒りがちな人はいつも怒っているし,冷静な人はいつも冷静で,冷静な人が実は何かを溜め込んでいるとは思えない。怒ってる人のほうがよっぽど溜め込んでいる。だから僕は,怒るメリットが分からなくなった。

「いつも何かに怒ってる人」は少なからずいると思いますが、そうやって目に付く人っていうのは、「パブリック空間」で怒っているのではないでしょうか。例えば社会問題について怒る人だったり、お店にクレームをよく付ける人だったり。どうしようもないことに怒る人々、という感じ。
この空間での怒りって、個人的な関係性がないし、どうしたって正確に伝わりません。怒ったことが解決する可能性も低い。またプライベート空間よりも、パブリック空間の方が怒りの対象となる物事の数が絶対的に多くなる。怒りの原因が多く、その原因が解消しにくい・減りにくいのであれば、常に怒っているのは必然のようなものです。
パブリック空間ほど怒りの感情も多くの人に伝播するわけで、怒りは怒りの増幅装置ともなるのだと思う。

しかし例えば叱り上手の人などは、ここぞという時に、これぞという形で怒りのシグナルを表出する。そして最小の副作用で最大のコミュニケーション効果を引き出すことに成功している。

「叱る」というのはいい例だと思って、叱り方の本なんかでも、「みんなの前ではなくて、1対1で叱れ」「人・人格に感情的に怒るのではなくて、結果・行動に対して論理的に怒れ」なんてことが書いてあると思います。
怒りの感情をパブリック空間で用いるのか、プライベート空間で用いるのか。また自分の中でパブリックとプライベートのどちらに重きを置いて考えるのか。そこに怒りのメリット・デメリットの分け目があるんではないかと。

そしてもっと突き詰めて言えば、「自分がどうにか出来るか」が問題なのかもしれないと思った。

  • 怒る対象が、自分がどうにか出来るものであるかどうか(そう思えるかどうか)
  • 怒る対象に対して、自分で行動を起こすのかどうか(起こそうと思うのか)

あまり上手くまとまらないけど、こんな感じ。